アイボリー
はじめに
思うに淳さんはいい時にいなくなってくれた。それは今だからこそ言えるのだけれど。あの時は少なからず驚いた。前は必要だったけど今は普通になったと、わたしのことを言った。携帯を使わなくなったので解約しましたと事後連絡のメールに唖然としたけれど、何も言われないよりは誠実さを感じた。そう言えば、このひとは数少ない(と言うか唯一の)気兼ねなく自由に連絡できるひとだった。連絡を絶たれたのはそれが最初で最後だった。どんな時も新しい連絡先をきちんと伝えてくれていた。そうして消えるときは本当に跡形もなくすとんと消えてしまった。二度と連絡がないということは、そのひとと新しい人間関係も築かれないということで、だから幻滅も期待も強い感情を抱くこともない。寂しくないといえば嘘になるけれど、気持ちが変わってしまった相手をいたづらに刺激しないのは、最高の思いやりではないだろうか。色褪せた感情を後生大事に胸に抱いて、往生際悪く生きているわたしには到底たどりつかない思いやりのこころを彼は持っていたのだ。あれから六年の月日が流れた。今はありがとうの気持ちだけ変わらずに残っている。そして彼が書いた本と。
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一年ぶりにパーマをかけた。やっとの思いのロングヘアーの裾パーマ。そんなに傷みもなく伸びた髪に感謝だ。いつもは途中で挫折して、伸ばしては切っての中途半端さだった。エアウェーブというらしいけれど、やけに時間がかかって、最後はへとへと、足もとも覚束なく帰り、思いっきり持っていった傘を忘れた。担当さんも特に声かけしてくれなかったし、それより何より疲れ切ってしまっていたのでそこまで思考がめぐらなかった。300円の傘だから惜しくないのだけれど。車で30分かかる距離をまたそれだけのために往復するのは気が進まないので、たぶんこのままさようならだ。これがひとだと向こうからやってきてくれるかもしれないけれど、傘だからしかたない。また連絡くれないかなと待つような祈るような気持でいる対象のひとがいるけれど、きっとこのままだ。さようならではないとは思っているから、しばらくの休止としておこう。また映画を観にいけるといいなと思っている。
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途切れたものをまたつなげるのは難しい。難しいから、ついついその努力を放棄してしまう。なるようになるさ、ならないならそれもまた人生。いや運命か。積極的にひとと関わるのが得意でなくなってしまったので、今は黄昏の中にいる感じだ。薄暮といえばいいか。薄暗いところで本を読んで過ごしている。そんな日常。教室でのわたしの席が孤島になった。憧れの孤島席。すぐ横には別の島の先生方がいるのだけれど、陸続きでないところに精神の自由を感じる。わたしの島にようこそ。これからは子供達をそういう気持で迎えよう。国語専用席だそうだ。専用を担当するほど国語に熟知していないけれど。主語と述語くらいはわかるよってくらいで。
金井美恵子さんの書いたものは機会があれば大体読むようにしているのだけれど、今回は絶版物の小説の新版「岸辺のない海」を読んでいる。特に筋といった筋はないのに読めてしまうのが、やはり文章の流れがいいからなのだろうと思う。朗読の作品にすら選べるだろうとまで思う。なぜか「海辺のカフカ」を思い出した。一人称のぼくで語られるからだけではなく、なんとなく想起される風景が似ていると思った。際限がない感じで、だるいような引き締まるような感じでつるつるっと続いていくのだろうと、すこしずつ読んでいる。
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朝の散歩で、ひさしぶりに会ったひととゴールデンの可愛さについて語り合う。このひとが連れているのは英国ゴールデンで毛色が白い。うちの犬も子犬の頃は白っぽかったので、初めて会った時はお互いに犬を見比べて色が似てますねと言い合った。ひとつの季節に数回ぐらいしか会わないのだけれど、会うたびにゴールデンの可愛さについて確認し合うように語ってしまう。飼ったひとでないとわからないですよね、と毎回これも同じセリフ。犬の話をするのはある意味わたしにとって癒しだから、同じことを何度言われても言っても嬉しい気分になる。
この春社会人になった教え子からひさしぶりに連絡があったのだけれど、まっすぐで純粋な感じは変わらない。悩むような感じに見えないのに、意外と悩み多い子で健気な感じさえする。見た目がこわめなのに中身がかわいいって言われない?と訊くと、まんざらでもない表情をする。夏祭りで再会した同級生の女の子にどうやってもう一度逢おうかと悩んでいる。3年越しの想いを抱いているのだから、告白すればいいじゃない?と簡単に言ってしまうけれど、当事者としてはなかなかそうもできないだろうなと思う。気持はわかるよ、わたしも長い片想いをしていたことがあるから、先に延ばしても自分の気持ちは変わらないけれど、相手の状況が変わるかもしれないから、その辺は自分の判断だよと言うしかない。長い片想いも自分を鍛えてくれるからまるっきり無駄ではないと思うし、とさらに伝える。
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北杜夫氏の「幽霊」は、やはり怖い小説だと思う。タイトルが表すようなオカルトめいたものは出てはこないのだけれど、なんというかかもし出しているものが怖いのだ。特に虫についての描写やそれにまつわる小話にぞくぞくとなってしまった。わたしの心の神話は何だろうと、忘れてしまった幼年期(幼稚園に通うまでのこと)について思いをはせてみたけれど、はっきりとした物語は何も浮かんでは来なかった。写真で見るその頃のわたしには笑顔がない。重苦しい表情というわけでもない。ただぼうっとしている印象しか受けない。けして明るい家庭ではなかったような気がする。家族で笑い合ったのは、もっとずっと先の小学校の中学年になったくらいだったような気がする。わがままで癇癪持ち、ひとつもかわいいところのない子供だった。お話ばかり読んでいた。さみしいような、心がしずかになるような、そんなお話ばかり好んで読んでいた。不思議と字よりも挿し絵がメインのいわゆる絵本を読んだ記憶がない。想像力だけはその頃から強かった。毎日の大半を想像の中の世界で生きていた。
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ここに何かを書くのもなんとなく続いている。知人が見ることがないから、たぶんもう知人は見ていないと思うから、ただただここはわたしの気持の記録になりつつある。ああまた夏が来る、と梅雨寒の気候に振り回されながら、これから訪れるであろう暑い日々を思う。教室ではずっと髪を後ろでまとめているので、季節を問わずまとめ髪があたりまえになっている。髪を長めにしているのはただ一つにまとめたいからなのではないかとまで思えてくる。耳はずっと隠しているものだと思っていた頃が遠い。今では、耳は人目にさらすもの。微妙に左右の大きさが違うのが気になるといえば気になるのだけれど、顔に張り付く形で息づいているのが自分なりに気に入っている。隠していた頃の耳が懐かしい。白くて頼りなくて血の気の薄い色をしていた。それは今の耳とは違う生き物だったとまで思えてくる。
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いろいろな気持ちが去って行ってしまった。失われたのだとは思いたくはないけれど、わたしは変わってしまったんだと思う。あるいは安全な場所に逃げ込んだか。そしてそこからまた別の空を見ている。見ようと心掛けていたのが功を奏して、今ここに存在できている。未完の物語は想像で補えばいい。行けなかった場所へは追憶の中で行ってみればいい。記憶の中の彼らとわたしが追憶の中でつくりあげる彼らは別物だと思っていれば、もう怖いところに行かなくて済むはずだ。
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ひとりで何でも済ましてしまう。その方が楽だ。きっとわたしはさびしがり屋ではないんだろうなと、今さらながら気づく。明け方の四時に死にたいなんて電話してくるひともいないし、もうそういう付き合いは求めていないし(そんな友人との出会い方も今じゃもうわからない)、だから正直もうわからないというのが本当なのだ。非現実的な内容がぽつりぽつりと断片的に語られて相槌は打つけれど、どうしようもなく気持ちは引き続ける。勉強を始めると言っていたから応援したいなと思っていたのに、またもやはぐらかされる。それがその病の特徴だと頭では理解していても、現実には前とたいして変わらない状況を伝えられるのが悲しくもあきれてしまう。不安定なひととつきあってはだめだよ、ってこれはいつかわたしが言われた言葉を思わずかける。ひとりでさびしいからそのひととつきあっているんじゃないでしょう?はい、さびしくはないですね。じゃあなんで?と言いたくなるのを抑えて、ひとはそうそう変わらないのだという現実を知る。言葉は知らぬ間に嘘をつくから、鵜呑みにしない習慣はついていたのに、なんだかまたやられてしまったと思ってしまう。それでも、便りがあるうちはわたしも何かを返すよ。だからまるっきり葬り去ってはいないのだあの頃を。
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「レベッカ」の新訳が面白いと言われているようで、さっそく読んでみたのだけれど、最初の追憶の場面が何だかだらだらしているように思えて、こんな話だったかな、あれ?と思っていたら(というのも恐ろしいくらいしばらくぶりの再読だったので)、どうしたことか、読み進むうちに不思議に少しずつ少しずつ吸い込まれていく。これははまると思っていたら、あっという間に上巻が終了し、下巻が薄いのでさびしくなりながらも、いよいよますます引き込まれて、ラストの数行にやられる。これでおしまいなの?次の章がないことに大きく落胆して終わる。終わってしまうのが悲しい物語にひさしぶりに出会った感じだ。そうして、初めの追憶のシーンにつながるのだとわかるのにしばらく時間がかかるくらいに茫然自失という境地。面白かった。わたしもあの頃に比べて(最初にこれを読んだ頃に)、ずいぶんと大人になってしまったんだなと嫌になるくらい思い知らされた。女の子が一瞬にして女性になってしまうあの感じ、今ならすごくわかる。わかりすぎて困る。
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五月も半ばだと言うのにうすら寒い日が多い。午後の四時少し前、教室に何を着て行こうかなと、肌寒くて鼻がむずむずしてくると嫌だからと、シャツ一枚では心細くて、はおりものを持参するが、一度中へ入ってしまったら子供たちの熱気で特に必要ない。今年度からゆとり脱却の先行実施で授業数がいくらか増えるから、学校を終えてやってくる子供たちの集中する時間も少し遅くなった。前はあまり接しなかった低学年や幼稚園の子供たちの音読を聞く機会も増えた。最近の生活は、もっぱらこの教室での数時間を支えに動いている。高校生も中学生もこの春からはご無沙汰だなと、ほっとしながらもいくらかさびしい気持ちも混ざる。接している時は心中穏やかではないことも多く、少なからぬ責任も感じてはいたけれど、彼らのことを知ることは楽しかった。好意というより好奇心で動いていた。
さて、ひさしぶりですのメールで、電話に出なかったわたしに日々の変化と気持ちの変化を伝えてきたひとがいたけれど、相変わらずのわたしは、好奇心のみをもって返事を返した。それ以外の甘い気持ちは一切見せず、相手に興味を持っていることをひしひしと伝えるわたしは、自分でも嫌になるくらい手ごわいと思う。
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新潮文庫になっているドストエフスキーはすべて読んでしまったので、ひとまず1860年代あたりのロシアの世界とはお別れだ。このひとが面白いのか、ロシアの作家が面白いのかはわからないけれど、何とも言えないおかしみがあって引き込まれる。トルストイはなぜか読む気が起きないから、やはりこの世界とはしばらくお別れなのだなと思う。次は何にはまろうかと頭を悩ませる。こういうのは恋愛と同じで、自分の意志ではまろうと思って没頭できるものではないから、次の何かの波が来るのを待つしかないのか。とりあえず「名短篇、ここにあり」のページをめくる。小松左京あたりまでいって、あまり入り込めないことに気づく。城山三郎で足踏みしているけれど、次の吉村昭の「少女架刑」が興味深いので、早々に読み進めようと思う。犬ブログにはまっている場合ではないのだと思うのだけれど、子犬が産まれました、そしてその後の成長はこうこうでと言う内容のブログに毎日釘づけになっている。
桜はちらほら咲いたりしているけれど、ただもう寒くてお花見どころではない。さすがに雪は降らないけれど、朝の空気はまだまだ冷たくすきとおっている。
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ひさしぶりに読んだ梨木香歩はあまりおもしろくなかった。興味のない分野のことをつらつらと説明されるのあまり好きではない。取材が必要な内容のことが書かれている小説が苦手なのは、そういう専門的なことは物語で読みたくないからかもしれない。なにげない、そのひとの人生で体験されたような、あるいはまわりの人びとからもれ聞いたような、どこにでもありそうでないような個人的なおはなしが好きだと思う。それをそのひとがどう表現するか、それを個人的に読み取っていくのが好きなのだ。特に過激な表現を使わなくていい。そんなことをそこまで書くのかとうならせてくれるような文章に出会いたいから本を読んでいるのだと思う。そういうものに出会い、ゆっくりと引き込まれていく過程を存分に楽しみたいのだ。
前はそういうひとじゃなかったような気がするよ、選べないのはその病の特徴かもしれないし。そうは言ったものの、わたしは彼のことをよくは知らないから何とも言えないというのが本音だ。だから、どちらも選ばなくていいよ、それにどちらもやめる必要はないよ、今のあなたに必要な人たちだと思うから。そう言うしかなかった。
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何かの罰かと思うくらいに激しい頭痛とそれに伴う吐き気。きっかり12時間後には治まって、ああいつものやつだと思って、だからこうしてわたしは病院へは行かないのだなと、自己診断して満足している。けれど今回はいつもよりこみあげてくるものが多かったので、何かのウィルス、それか悪霊?にでもやられたかと正直なところ思っている。そうだ、悪霊のせいにしておこう。それか生きているひとの恨みとか。恨みなんてしばらく誰からもかっていないと思っていたけれど、それは相手が表明してくれないとわからないことだから、そうそう自覚なんてできないしと思って、それに自覚したらしたで穏やかには生きてはいけないだろうし、と最後は日々できるだけ誰の迷惑にもならないように存在していたいという考えに落ち着く。そういうのは土台無理だとわかっていても、文字にして気持ちをおさめたいのだ。
読んでいる本の影響か、気持ちがいやに沈む。これを読み終えたら、次は梨木香歩あたりを読もうかと思う。すこし現代に戻ろうと思う。1860年代の農奴解放令が出たころのロシアの世界は、奥がよく見えない感じでとても興味深くもっと知りたいと思う気持ちに駆られるけれど、ここいらへんで小休止を入れないと持たないかもしれない。
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図書室の先生にはもう憧れない。小説を書くことにも執着しない。ファンタジーに揺らされることもなくなった。詩も書かない。書く必要もない。散文は相変わらずこうして書き散らすけれど。そう、いろいろなことがわたしの中で終わってしまったのだ。ただただ教室での困りごとだけに気持ちがとられる毎日。一週間が繰り返しでよかったと思う。たいして何も起こらない。どこにも行かない。電車に揺られて西へ向かうこともなくなった。最後は、野木あたりで下車して帰ってきた。東京へ向かうはずだった。そこでUターンして戻ってきたわたしは、そこからは今も先へ進めない。
感傷的なことを言い合ったあの時の彼女は、すでに社会の一部として生きているのだろう。知るてだてもないし、あえて知ろうとも思わない、あの日、海に一人で行かせたくないと、わざわざ同行して見守ったのは、ただ彼女に会いたかっただけなのかもしれない。今じゃわたしの方が海に一人で行かれやしない。
「悪霊」ってこんな話だったかと思い、抱いていた記憶と違うことにはっとする。実は読んでいなかったのだろうという考えに落ち着く。きっと前は読めなかったのだ。文庫本を買った覚えはあるけれど、そのまま読まずに置いてしまったのだろう。たしか、その頃は読書どころじゃなくて、どうしようもなく熱中してこころを悩まされるものに出会っていたのだ、と思う。
ほんとうの真実はつねに真実らしくなくて、真実を真実らしく見せるために、ほんの少し嘘を混ぜなくてはならない、とステパン先生は言う。すこしばかりの嘘。その分量はひとによって違うから、いろいろとトラブルが起きるのだろうけれど。
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こころのどこかでもう生きてはいないかもしれないと思いながら、彼の25回目の誕生日が過ぎたことを意識している。さすがにもう連絡して来ないよねと、それは生きていたとしても同じことだろうと、ほっとしながらもどこか淋しい気持ちでいる。淋しく思う権利なんてないのに、いつしか見失ってしまったまだ浅い夜空の一番星を思うような、いやそれよりは強い気持ちで、、、ああ、わたしは何を言っているのだろう。確かに好きだった時はあったと思う。それも今はもうよくわからない。ただわたしは変わってしまったのだ。かつて、彼の言う「葉っぱのフレディ」を否定しながらも、実はわたしこそが変わりたがっていたのかもしれない。あの頃のわたしの言葉は嘘ばかりなのか。いや、その時はそれが真実だと思い込んでいたのだ。何も変わっていない。強がりで本心をかくすのはわたしにとっては日常のことなのだ。こころを開いたふりばかり。今ならそう思える。何も変わっていない。相変わらず言葉あそびを楽しみながら、相手を追い詰めていくことをやめられない。自分の分身だと思い込めるくらいまでに。
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年の初めに懐かしい教え子から、今年は受験生なので何かあったらまたよろしくという年賀状が届いていた。実家に帰省していたので今日になって気づいたのだけれど、なんだか忘れられてなかったことが嬉しい。さっそく明日返事を書こうと思う。中学卒業以来あっていない彼女。今はどんな高校生になっていることやら。うん、できるなら成人した後も関係が続くといいなと漠然と思っている。先を期待しない生き方を始めたのはいつからか。同じひとにずっとこだわらないように気をつけようと心したのはいつからか。ひとはいつか変わってしまう。その変化がわかりにくい形で訪れるひとは、変わらないよねと言って思い出を懐かしむことができるけれど、そうでないひとや劇的に変わってしまったひととは、そしてその変化がとても受け入れがたいものだとしたら、すっと遠ざかることを考えてしまう。変わらないよねって言葉は、、、、わたしは嬉しいことの意味で使っていることが多いと思う。
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「白痴」のムイシュキン公爵の損得のないところがばかだと言うのなら、それを純粋だとか言うのなら、わたしなんてまだまだ打算的でずるい人間だ。ひとを切れないところは多分にあるけれど、キリスト的に隣人を愛することを心がけるけれど、感情までは嘘をつけない。打算的なわたしだからこそ打算的なものにはいやに敏感で、そういうものを感じるこころも人並み以上だし、おかしな話だけれどあからさまにそういうものを非難したりもする。ただ誰かのためにお祈りするしかないこともある。助ける手はわたしからではない方がいい時もある。悔やまれるのは、見守りきれなかったことだけだ。まだ終わったわけではない。ひとはいつからでも道を変えられる。だんだんと悪い方向に変わってしまったと言うのならば、いい方向にも変わっていけるんだと思う。たいして幸せに振り回されることもなく、毎日はこんなもんだと、つまらないギャグや冗談に笑えたなら、根気と集中力を要する読書を楽しめるようになったなら、それが生活なんだと今は思える。
そうそう、なにもかも幻影にすぎないのだ、きっと。こだわり続ける必要はない。失うのではない。最初からなかったのだ。次は、ヘッセの「荒野のおおかみ」。
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ああ、ごめんなさい、わたしにはもう無理です。そう言葉にする代わりに、もうこれで終わりにしてもいいよと伝えた。いやに落ち着いた声が出たので、我ながら本気なんだと思った。偽りも強がりも何もなくて、ただ素直に思ったことを口にした、と思った。働くのが嫌なんですと笑い半分に言葉にする彼のことを、もう好きではないと思った。同性の友だちなら欲しくない。今までは彼を異性だと信じていたから、こだわり続けていたのだと思った。男のやさしさは言葉じゃなくて経済力だとずっと思っていて、ひとにもそう言った記憶があるし、今もそうたいして変わらない思いを持っている。わたしは冷たくなれる。きっと突き放せる。通常でない考えの中にいる彼に、元々まじめできちんとしたひとだと思うよ、だからそうでない今の状況を受け入れられなくて苦しくなっているんだと思うよ、と言うしかなかった。似つかわしくない環境に身をおき続けてしまって、こころが壊れていっているんだと思った。わたしだって、そういう時が確かにあった。だから言うんだよ。そう言っても伝わらないかもしれない。理解されないかもしれない。けれど声を荒げて言い続けた。本当に今の状況を変えたいと思っているのなら、まず環境を変えてみることだよ。
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今は「飛ぶ教室」。今さらながらケストナーだ。ああ、この世界はヘッセを思い起こさせるけれど、景色は似ているけれど、なんか違う。違うけれどこれはこれで好きかもしれない。男の子の世界は好きだ。つい先日、男同士の友達というかコンビというか、そういう間柄の人間関係ってやさしいね、これは女子とは比べ物にならないくらい強くて優しい絆で結ばれているよねって話をしたばかりだ。互いに足りないところを補い合って助け合う。タカトシの関係なんて特にそうだよねなんて意見が一致して、妙におかしかった。
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スカートをはき始めて半年経つという彼女。今は幸せではないと言うけれど、きっと幸せなんだよと思う。あの頃言えなかったあなたの理想が今のあなたなの?そうだと言われても、なんだか狐に化かされているような気分になる。真実も虚言も受け入れることにしているわたしには、何が本当かなんて重要なことではない。たいして何にも驚かないよ。第三者が介入しない関係って、相手への好意がないと成り立たないと思うから、それをずっと証明し続けてくれればいい。
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こないだ携帯のメモリー全部消しちゃったんですよ、なんて言いながらかけてくるもんだから、それは意図的に?それとも事故かなとぼんやり考えて、とりあえずへーそうなんだと相槌を打った。だいじょうぶだったの?と、わたしのところへはかけてこれているので、修復できたのかなと思って尋ねると、あ、みんな消えちゃいました、親と親友とそれと**さんはメモしているからだいじょうぶだったんですけど。そうやってわたしの名前を出すものだから、あはは、あたしって親友と同じ扱いなんだと、もうかれこれ知り合って八年の彼女のことを思う。だって、**さんからはかけてこないじゃないですか、だから控えておかないとと思って。そうだね、よっぽどのことがない限りあたしからはかけないもんね、と妙に納得。このひとはよく自分の交友関係をリセットする癖があるのだけれど、わたしはもともと彼女の友達ってラインからスタートしていないから、いまだにどういう位置なのかわからない。そもそも彼女はわたしの年齢さえも知らない。彼女は男とも女ともつき合えると言う。内面的に好きなのは男のひとのだけれど、肉体は女性が好きと言う。だから彼氏も彼女もいろいろに変わる。それぞれにそれぞれの良さがあるから、一概にどっちとつき合ったら彼女にとって幸せなのかわからないとは思う。そうだなあ、まだまだ若いのだし、いろいろに試してみたらいいと思うだけだ。
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教室で、きれいな男の子がすねていた。こちらの指示に従わず、巧妙な嘘をついて自分を通そうとする。きれいな顔してふてくされるから余計に腹が立つ。子供なのに妙に要領のいい子がいる。そういうのを目にするたびに心が黒くなる。濁ってくる。
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ね、どうしてやつれてないの?目の周りとかしわないしと先述の彼女に訊かれたけれど、いやいや自分から目線では一番いい時はもう終わりましたよと思う。元々美形タイプの、彫りがある程度深い彼女に、自然とごく微量のしわができるのは当然で、若かりし時はさぞかしなんとかと言われたことのないわたしは、今も昔もたいして変わりばえのないラインを保っているだけのことだ。そういえば、ひとを見るときに、そのひとの顔がきれいだからどうだとか、そういうので好きになったりしないところまできてしまった。むしろそういう妙にきれいなひとを避ける傾向にあるかもしれない。たとえば、美容院でたまたま担当してくれたひとがやけに美人だったりすると、男女に関係なく次回は行くのを考えてしまうというか。
やはりロシアの小説は大変だ。名前が覚えられないから、誰だったかと幾度もページを振り返る。一回限りしか登場しないような、挿入話的なところで語られるひとの名前まで振り返って確かめないといけないのは、なんだかとても効率が悪い。なんだこのひと、この後にも出てくるのかとその時はさらっと流した名前が結構重要な位置のひとのだったりして、先が読めないからこそ面白いのだけれど、なんとも不便だ。けれど主人公のラスコーリニコフ。これは妙に覚えやすい名前だと思った。語感がいいから、物語の合間に出てくるたびに小気味いい高揚を起こしてくれる。ラスカルに似ているからか。あらいぐまラスカル。
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古くからの友達に久しぶりに、実に一年以上ぶりに会う。今は一人で暮らしていると言う。彼氏とは相変わらずの、籍は入れない半同棲状態の関係らしい。経済的なことが結婚を延ばしている理由だと言うけれど、迷うこともあるのかなとも思う。こんなに強いわたしでさえも守ろうとしてくれるんだよ、と彼女は言う。そうなのだ、この彼女は肉体的にも精神的にもかなりタフなのだ。それなのに守られたいのだ、だから彼と離れられないんだろうなと思う。わたしも強いとよく言われるけれど(これは精神的に)、守られたい気持ちはずっとあるからわかる。この気持ちは何歳になっても変わらないと思う。だから、ある日男だと思っていた彼が、いきなり女っぽく、それも主婦っぽくなられたら冷めるのだ、いや覚めるのだ。今までわたしは何を見てきたのかと。
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この秋はドストエフスキーと主に過ごそうかと思う。八月の終わりあたりから前から気になっていた「未成年」を読み始め、先週末に急に訪れたひとり暮らしの日々の間に読み終えてしまった。何度も人物関係を振り返りながら読み進めないと、何が何だかわからなくなりそうなくらいの出来事の盛りこみようで、いつものわたしの手法で、わかるところだけ心に残して筋を追った。自然の背景の描写などまったくと言っていいほどなく、それは手記という形だからもっともなのだと言われてしまえばそうだけど、人物の関係性だけを純粋にたどっていけるのは幸せなことで、まったく物語にこれほど没頭できるのかと思うくらいだった。わたしが現代に近いお話をあまり好まなくて、こういった貴族がどうだ、決闘がどうだ、思想がどうだとかいう古い時代の物語を好むのは、これはわたしにとっては形を変えたファンタジーであるからなのだと思う。現実にはありえない話がファンタジーだとすると、19世紀のロシアのお話はまぎれもなく現代のファンタジーなのだと、勝手に思っている。
先生といつまでこうして話していられるんでしょうねと、例の彼が言うものだから、それは話そうと思えばいつでも話せるよと答えておく。卒業してからも先生にお世話になるわけにいかないし、なんて殊勝なことを言うものだから、なんだかおかしくて、お世話してるのかなわたし、と思ってしまう。彼がわたしの最後の生徒だと予感として思っているから、先生としての彼との関わりを大切に残りの日々を過ごそうと思う。
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ひとと話していて話が変わった回数を数えてしまうと、なんだか神経症的なことを言われて、そうか話を転換するにはエネルギーがいるもんね、できるならずっと同じ話題で話してたいよねと、これまた閉鎖的な返答を返すと、意外と、そうですよねその方がいいですよねと共感めいたことを言われる。ころころと話題が移り変わると何かせかされているような落ち着かないものを感じてしまうから、ずうっと同じようなテーマで話していたいと思う。それで話しながらもじょじょに視点が微妙にずれていって、いつまにやら違う話になっていたというのが好きだ。話題をさっと変えられてしまうと、こころが急激に冷めるような所在なさを感じてしまうからだと思うのだけれど、そういうの理解してくれるひとはいないから、わざわざ口に出して言ったりはしない。そういう、身構えるような気持ちで発していない言葉を引き出してくれる会話ができると、それだけでわたしは満足してしまう。ひとにあまり多くを求めない位置にいるのが心地いいことを知ったから、ふっとした瞬間にこのひとのここがいいなと思えるような時間を持ちたいと思う。
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夏は待たされてばかりだ。夏のことはその後の季節に持ち越しということが多い。約束というほどの約束を交わしたわけではないと、冷やした頭で考えてみる。ああ、そうだった、互いに夢のような話を語り合っていただけだった。
部屋中のカーテンをかたっぱしから洗濯機にいれて洗う。汚れを落としたい。何の汚れかはよくわからないけれど、思い出を洗い直してまた新たな目で眺めたい気持ちと似ているのかもしれない。
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夏に冬のことを考えてしまう。夏の暑さの中にいると、これもすぐに過ぎ去ってしまうのだと思うと、早くも秋冬の日々のことに思いをめぐらしてしまう。読書を楽しむだけの集中力だけあればいい。いろいろに教室の出来事を思い出さなくてすむように。ひとを見守り育てることは、やはり苦しいことなのだと思う。好きも嫌いもなく子供たちを見れるようになりたい。
心境の変化とはすこし違うけれど、石鹸で顔を洗った後のようなつかの間の清清しさの中にいる。
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